数年前から庭に植えているミニ水仙が満開になった。
春がやって来たのだ。
宮沢賢治の童話に「水仙月の四日」という物語がある。
この水仙月が何月なのかと多くの研究家が推測している。
私は、二月だと信じて疑わない。
雪の岩手は、水仙が咲く片鱗も見せていない。
また、物語の中で水仙が咲いている描写もない。
だが、南斜面の雪が消えかかっている土手に、ツンツンとした水仙の葉が見えそうな。
まだまだ春までは遠いが、かすかにその気配が感じられる日がある。
そんな風景が想像できる。
気がする。
よって二月生まれの私は、水仙月生まれとなる。
毎年のように、ミニ水仙を鉢植えで贈ってくれる友がいる。
二月の水仙は、室内の鉢でしか花開かない。
野の水仙が咲き出す頃には、鉢の水仙は花を終える。
それをせっせと庭に移植したのだ。
年毎に増える水仙が、いつか、群落を形成するだろうか。
少し楽しみである。
さて、いいお返事のタイトル。
先週、高齢者施設に入居している母の面会規制が解除された。
2年ぶりの再会になる。
母には、物取られ妄想があるのだが、しばらく収まっていたのが再開した。
些細なものを見失っては、泥棒が入ったと嘆くのだ。
どう考えても、置き忘れや間違って捨てているだけなのだが、その記憶がすっ飛んでいるから、自分が無くしたとは微塵も思わない。
いくら言い聞かせても、架空の泥棒は、母の中では真実になっている。
ボケて来たから仕方ないし、無意識に気を引こうとする結果だとも理解している。
しかし、この妄想が、私の最大のストレスとなっている。
だから、コロナ禍で面会出来ないのは、幸いだった。
月に3〜4回、母の好物を宅配で送れば、娘としての義務が果たせた。
もっと優しく出来たら、母の妄想も減るかもしれない。
だが、優しさって、何だろう?と自問する。
私は、母の何に腹を立てているのか?
この2年、考え続けていた。
このまま帰らぬ人になったら、私は後悔するのだろうか。
そんなことも考えた。
面会解除目前のある日、施設から連絡が来た。
母の妄想がまた始まったらしい。
会いに行きますと言うと、ぜひそうして下さいと言われた。
私は山ほどの食料を持って、2年ぶりの面会に行った。
泥棒の話をされても、出来るだけ穏便に話をしよう。
と、心に決めて。
難しいな。
2年ぶりの母は、バァさんに磨きがかかり、すっかり年老いていた。
母は、買っていった食料をせっせと冷蔵庫に詰めている。
冷蔵品と常温品の区別もつかぬままだが、私は手伝わない。
その間、2年間放置していた掃除機の中を開いてみた。
案の定、埃が詰まっており、掃除機としての役目は果たしていない。
ま、想定内ね。
母の思考は、この掃除機と同じかもしれない。
ストッカーに溜まったゴミを捨てても、フィルターに詰まった埃を排除しないので、ゴミはほとんど吸わない。それには全く気が付かないから、吸わない掃除機をかけて、掃除した気になっている。
詰まったフィルターは、蓋のようになり、モーターを無駄に加熱させオーバーヒートしてしまい機能を失う。
母のフィルターは、詰まったままなのだ。
それを老化と呼ぶのか、認知症とするのか、曖昧なラインである。
食料は、一通り冷蔵庫にしまったようだ。
が、ヒョイと置いたらしいヨーグルトが冷蔵庫の脇に残っていた。
ま、こんなもんよね。
ちょっとのつもりで置いたものを、さっさと忘れる。
私は、それを例にとって、無くしものは自分が置き忘れているよと話した。
母は、バツが悪そうにしながらも、私の言うことに「はい」と元気よく返事をする。
その「はい」が、実にいいお返事なのである。
ともかく「はい」「はい」と返事をする。
その返事の良さに、呆れてしまうほどである。
何だか、一生懸命分からせようとしているのが、アホらしくなった。
もう、いいや。
そう思いつつ、母の返事には訳がある気がしてきた。
長い年月、いい返事をすることでその場をやり過ごして来たのだろう。
生きる術なのだ。
そう思うと、もっとやるせないのだが。
複雑なまま、母の部屋を出た。
これまでは、廊下の窓から見送ってくれたが、駐車場から見上げても、姿はない。
そんなもんよね。
翌朝、母から電話が来た。
何事かと思えば。
昨日はありがとう。会えて嬉しかったよ。
・・・
ま、ちょっとじんわりするところだろうが。
やっぱり、複雑なままの自分がいる。
私は、子供の頃からずっと、理想の母親像を求め続けているのだろう。
それは、決して得ることはないと理解しつつ。