1999年に開業してから、23年の歳月が過ぎ去った。
幾度も困難にぶち当たったが、根拠のない自信と多くの助けが救ってくれた。
当初は、運転資金もままならず、自転車操業も一輪車でのヨタヨタだった。
それでも、悲壮感のかけらもなく、貧しくても毎日が楽しかった。
それは、多くの友人に恵まれたからだったと思う。
喜多方生協の人たちも、そうだった。
とあるイベントで知り合った女性がそこで働いていた。
彼女は、米作りを学んでいた。
あの頃の喜多方は、都会からの農業実習生が多かった。
今のように、行政がお膳立てしてくれる制度はなく、個人の仲介者が、住まいと農地を提供していた。
もちろん有料である。
多くの実習生は、昼は農業を学び、夜はバイトで現金を稼いでいた。
みんな、貧しかった。
栄養失調で倒れた話も、ずいぶん聞いた。
だが、彼女は、そんな人たちとはちょっと違っていた。
前職は、農業関係の雑誌の編集に携わっていた。
その仕事で、全国の米農家の取材をしており、次第に米作りに並々ならぬ想いを抱いた。
そして、その中でも一際心惹かれた農家さんに、直接弟子入り志願したのだった。
それが、喜多方だったのである。
そのストーリーは、中々のものだった。
状況は全く違うのだが、私は勝手に共通性を見出した。
そして、急速に仲良くなったのだった。
自然と喜多方生協へ行く機会が多くなり、共通の知り合いも増えていった。
そんな人たちに、ずいぶん助けられた。
美味しい家庭料理をご馳走になったり、ケーキの注文をもらったり、アルバイトを紹介してもらったり。
財布の中身は侘しかったが、心は、枯れる事がなかった。
親身になってくれることを良いことに、随分勝手な振る舞いもあったと思う。
今考えると、冷や汗が出る事もある。
それが元で疎遠になった人もいるが、それは身から出た錆と戒めていた。
詫びを尽くしても、取り返しはつかない。
あれから、私が会津にいた時間より、ずっとずっと長い時間が流れていった。
彼女は、結婚を機に会津を離れ、夫の都合で各地を転々とした。
年賀状だけが唯一の生存確認になった。
もう、会う事もないかもしれない。
毎年、少し寂しく思っていた。
先日。
怪しげな女性が来店。
私の顔をじっと見ている。執拗なまでにだ。
やばい人かと思い、ちょっと怯んだ。
すると、名前を告げられた。
マスクをしているので、ちっとも分からなかった。
あああああああぁ。
米作りの友人だった。
そして、生協の面々も一緒だ。
うううううううぅ。
込み上げるものがあった。
縁は、切れていながったのだ。
そして、ささやかな行き違いも発覚した。
私の思い過ごしだったようである。
お互い、笑い飛ばした。
彼女は、今でも米を作っている。
気負わず、自然な姿は、あの頃と全く変わらない。
志を貫くことは、特別な事ではないのだ。
今度は、私が会いに行こう。