灼熱な日々だったのに、この雨でひんやり。
天気予報と睨めっこしながら、お墓掃除の日を決めかねていた。
が、気になっていると、とことん気になるから。
暑くてもいい、早い時間に行ってしまおう。
と、火曜日の早朝出かけた。
お墓は、生まれた土地にある。
駐車場に着くと、鐘がなっていた。
おお、住職さん、ちゃんと朝のお勤めしてるんだなぁ。
そう思ったのも束の間。
鐘は、自動装置だった。
決まった力で、決まった時間に、決まった回数。
電力がある限り、間違いなくその音は、鳴り響く。
やっぱりな。
なんとも平べったい音に、ありがたみは、微塵も感じない。
墓は、早くに亡くした兄のために、父が用意した。
今は、父と兄が眠っている。
父の命日が6月なので、その前に一度キレイにはしてある。
お盆の掃除は、それほど大変ではない。
ただ、日当たりがいいので、炎天下での作業は耐えられない。
早朝に行くのが慣例になっているのだ。
私の草取りは、父に習って、端から丁寧に抜いてゆく。
根が張って抜けない草は、地面ギリギリで刈り取る。
黙々と、ただ黙々と草を抜いてゆく。
今回は、ゴミ袋一つだった。
子のいない私にとって、墓の維持は、大きな問題になっている。
父が築いた家族は、娘の私で終わりを告げる。
私が居なくなってしまうと、この墓は無縁仏になってしまう。
病気をしたことで、それは現実味を帯びた。
元気なうちに、なんとかせにゃならんと考えている。
自分がいなくなった後の始末は、出来るだけ簡素にしておきたいのだ。
私は、生まれた場所や墓には、全く執着していない。
父を想うと、ここに置きたい気持ちもある。
何しろ父は、生まれた場所を離れたことがないのだ。
しかし。
私は、この寺の住職に親しみを感じない。
葬儀の時、法要の時、納骨の時。
そのいずれも、心に響く事はなかった。
私は、熱心な仏教徒ではないし、厚意的な檀家でもない。
現代において、寺の持つ意味合いも変わっているかもしれない。
だが。
亡き人に寄り添う心は、微塵も感じられないお経だった。
それは、ハッキリ伝わった。
よって、近い将来「墓じまい」をしようと思っている。
父が納めた永代供養料は無駄になるが、この住職のお勤めでは・・・。
成仏できそうもない。
単純にそう思った。
ま、仏に仕える身でも、人間だからね。